作物を育て販売する生産者だけにとどまらず、農にまつわる様々な取り組みや活動をしている人間はすべて農家と言えるのではないか。そんな視点から、現在の日本の農を支える100人の農家を取材するプロジェクトを発進します。
第一回目にご登場いただくのは、ハーバリスト・石井智子さん(神奈川県・相模原市)。自身で育てたハーブを用いて、健康やストレスなどの悩みを抱える人たちを救おうと活動を続ける、ハーブの伝道師にして現代のメディスンマンである。
石井智子(いしいともこ)
1959年神奈川県・横浜市生まれ。JHS(Japan Herb Science)代表。世界中から取り寄せたハーブを自ら無農薬で育て、ハーブによって心身ともに豊かな暮らしを届ける活動をしている。現在は、自宅でのカウンセリングによるセラピーを始め、地元・相模原市で隔週火曜日に開催される『ビオ市』や隔週月曜日に東京・恵比寿で開催されている『生活のマルシェ』にも参加している。
http://japan-herb-science.com/herb/
丸一日に及んだ長い取材を終えようとした時、石井さんは、そっと言った。
「この仕事は天職だと思う。だって、限界を感じないのよ」
石井智子さんは、1959年、神奈川県の横浜で生まれた。ジャズなど海外の音楽がいつも流れているモダンな環境で育った彼女は、3歳からオルガンとピアノを習い始めた。特にオルガンには夢中になった。
「例えば、ジャズのジミー・スミスってオルガンプレイヤーのレコードがかかってるとするでしょ。それに合わせて自分も演奏したりしてた。こっちからすれば勝手に共演してるの。それで、ちょっとでもハモれたりしたら快感なわけ。弾けてくると、麻薬じゃないけど、自分が別世界にいっちゃう感じ」
気がつけば、音楽漬けの日々を送っていた。幼いながら「音楽を極めたい」と心に決めていた。
「どうすれば上手になれるんだろう。それだけの毎日。楽しくやろうなんて気はさらさらないし、そもそも上手くなるためには楽しいわけないのよ。ただひたすら鍵盤と向き合ってた」
大学はもちろん音大に進学。しかも、両親の経済力に頼るのが嫌で並行してアルバイトも始めた。
「音大に来る子達でバイトなんてしてる子はいないわけ。だから友達にはバイトしてるなんて口が裂けても言えなかったけどね。稼ぎのいい肉体労働が多かった。スキーショップで、バックヤードに篭ってワックス掛けやエッジを研いだり、道路工事の旗振りとかさ。高速道路のセンターラインを引くバイトもギャラがいいって聞いて、男しかできないっていうから、男友達の学生証借りて、男のふりして行ったりとかしてた(笑)」
そして、3歳の時に両親に「将来は音大の先生になる」と宣言した通り、20代の後半に音大で教鞭を執るようになる。音楽、ことにクラシックの世界において、こんなに若い年齢で音大の講師の座を獲得することは並大抵の努力で成し得ることではない。
「でもね、もうその頃には音楽には限界を感じてた。努力だけで行けるところまでは行った。ただ、音楽は努力だけじゃいけない、天から与えられたものを持っていないと行けない世界があることも教えられた。残酷な世界なの。そこで、自分の限界は知っちゃった」
そして、音楽の神様は石井さんに更に残酷な試練を与えた。
あんなに大好きだったオルガンが弾けなくなってしまった。
「私は全身全霊で打ち込んで、究極を極めるみたいなスタイルになりがちだから、今考えてみると、身体を壊したのも当然だなって思えるほど脊髄に負担をかけてた。オルガンって両手両足でしょ。尾骶骨ひとつで全身のバランスを支えるんだけど、弾きすぎがたたって、頚椎(けいつい)をやっちゃった。
最初は指の感覚が無くなってきて、それから徐々に両手、両足も物凄い痺れと痛みに襲われるようになった。自分がどうなっていくのか分からない恐怖で気が狂いそうになった」
恐怖に拍車をかけたのが病名すら判明しなかったことだった。片っ端から難病の検査を受けたがどれにも引っかからない。このままでは、死ぬまで続けようと思っていた音大の仕事も続けられなくなってしまう。そんな時、頚椎に若干の圧迫があるので、手術をすれば治るかもしれないと聞いた。だが、それは、背中から脳内へ走る棘突起(きょくとっき)をドリルで外し、頚椎を開き、人工の骨を入れてワイヤーで留めていくというブラックジャックのような大手術だった。
「もちろん、手術は受けた。当時は、失敗すれば、帰りは車椅子になる可能性も高いって言われてた。でも、ここで手術しないで後で後悔するくらいなら、ほんの僅かでも可能性があるならやってみようと思った」
人生を賭け、勇気を振り絞って臨んだ手術。だが、車椅子で帰ってくることにはならなかったが、結局、病気は治らなかった。
「音楽をしない人生なんて考えたこともなかったから、途方に暮れちゃって。先のことなんて全く見えなくなった。しかも、日に日に痛みは増す一方で、首なんて目線より上のものを見ることもできなかった。そして、音楽を辞めた」
ただただベッドの中で天井を眺める日が続く。気持ちはどんどん塞ぎ込み、深い鬱の闇の中にいた。いつもどこかで死を意識していた。せめてこの部屋の中を美しい香りで満たしたいと思った。
「それがハーブと私の出会い。精油を買いに行ったお店で、アロマ初級講座みたいなチラシもくれたの。どん底の毎日だったから、心を休ませてくれるような香りを嗅ぐくらいしか出来ることはないなと思って、その講座に通い始めたの。そうしたら、やっぱり性格なんだね。ハマっちゃって(笑)
というのも、女性ホルモンが少ないからさ。ハーブの素敵なメルヘンな世界なんてものには惑わされない。むしろ、ちょっとハーブが効いたなと思っても「いや、気のせいだ」って思ってたから。むしろ、疑いだらけで、その疑問を晴らしたくてハマったんだよね」
音楽では、あそこに行きたいって明確な目標を立てて、努力してきた。
ハーブの世界に入ってからは、身を任せるっていうか、サーフしてる感覚
「オルガンの代わりにハーブに夢中になったなんて簡単な話じゃないんだけど、少なくとも、だんだんと痛みと痺れと共存していけばいいんだって目覚めていった。もう仲間みたいなもんだなって思えるようになってから、暗くて辛い状態から離脱できるようになった」
そんな時に知り合った相模原市の農業法人の経営者が北里大学の研究者との縁をつないでくれた。
「芸術の学校しか知らないから、化学系の学校に行ったら面白くてしょうがない。ハーブがなぜ効くのか。その科学的根拠を調べまくったわけ。
そうしたら、その経営者の方がありがたいことに『毎日通うのも大変だろうから、ウチでやれば』って言って蒸留小屋まで建ててくださったのよ。そっから6年間、明けても暮れても蒸留の毎日が続くようになった。香りに集中してると一瞬痛みが意識から外れて、それでテンション上げまくって蒸留を終えて家に帰ると猛烈な痛みがぶり返すっていう毎日だった」
そんな日々の中、痛みを知った自分だからこそ、同じように苦しんでいる人たちに対してハーブで出来ることがあるのではないかと思うようになった。相変わらず行動は早い。セラピストのライセンス、それも国内を通り越して、ハーブの本場イギリスの国際ライセンスを取得しようと決めた。時間はかかったが、見事に合格。同時に、勉強を深めるほど、ハーブの精油にも農薬や工業用の香料が使用されることを知った。
「私は純粋なハーブで蒸留がしたかっただけ。農業をやりたいとは思ってもいなかった。でもさ、そんなこと知っちゃったらさ『どうすりゃいいの?』って思うじゃない。それで、『じゃあ、自分で作るしかないか!』って思って、ハーブも自分で育てることにしたのよ」
農業の経験どころか、自分で植物を育てたのは、小学校の朝顔くらいだった。だが、そこで前出の経営者の方が、今度は堆肥会社をつないでくれた。そこに出入りするうちに「そこで土のことを教えてもらう内に、今度は微生物にハマっちゃった(笑)」。
耕作放棄地だった畑を借り受け、たった一人での土作りが始まった。広大な土地の草を刈り、植物由来の堆肥だけを使用した土作り。イギリスの薬局法掲載の薬用種を140種類も世界各国から取り寄せた。
「ハーブはアルカリ土壌のヨーロッパが原産でしょ。それを酸性土壌の日本で育てるにはどうすればいいか。ネットで検索したって、見たことも聞いたこともないようなハーブを育ててる人なんていないから、全く情報もない。だとしたら、ひたすら愚直に毎年毎年育てて続けて、少しづつそれぞれのハーブのことを知っていくしか方法がなかった」
ようやく光が見えたのは、土作りを始めて7年経ってからだ。土の状態を知るために野菜を育て始めた。自分なりに上手く育てられた。そこから3年間、野菜を作り、検査に持っていくと、ナスでも糖度が13というフルーツ並みの数字が出た。
「その時、ようやく、私が信じてひたすらやってきた土壌の作り方は間違いなかったんだって確信を持った。野菜でこれだけ通用するのであれば、それよりも厳しい状態でもハーブは育つから。むしろその方が芳香成分は溜まるので、後は余計な菌が入らないように維持していけばいい」
無我夢中でがむしゃらに走り続けて10年が経っていた。
時間をかけて向き合って
丁寧に生き抜くことがオーガニック
自分でもなく、他人でもなく、ハーブが私を評価する
「これはエルダーフラワー。エルダーベリー。3年も放っておけばこうなるわよ。このベリーをコーディアルにして食前酒とか。もちろん、ジャムにしてケーキに使ったりとか、ヨーグルトと食べていただいてもいい。フラボノイドがすごい。この色がアントシアニンのカラーでしょ。インフルエンザに効くし、メンタル面にも効く。
これは本当のメラレウカ・アルテルニフォリア。本当のTEE TREE。ティーツリーもいろいろあるのよ。これは精油で使っている品種。大木になって、素晴らしい綺麗な白い花が咲くの。ただ、寒いから冬のたんびにやられんのよ。
今の畑の中でお気に入りは、これかな。スイートマージョラム。オレガノと仲間なんだけど、世界の香水に、香料として使われてる。この子が一番好き。薄め方によってはなんとも言えない、すごい良い香りになる。
あ、あと、これがこの前二日酔いの時に飲んでもらった、ハイビスカス・アケトセラ。これは、花のトップのほんの僅かな部分だけを飲むの。一般的に販売されているハイビスカスはローゼルという品種。アケトセラを栽培してるなんて日本中でもウチくらいじゃない」
畑に出ると、途端に即席のハーブ講座が始まった。堰を切ったように、次々とハーブについて話し始める石井さん。それぞれの品種の前で立ち止まると、葉や花に柔らかく触れ香りを嗅いでは、それぞれのハーブの歴史や活用法まで一気に話し続ける。止まらない。
「だってさ、考えてみてよ。頭痛薬のアスピリンだって、あれって、植物にあったアスピリン構造を真似して作ったものでしょ。ヒスタミンとかもそうだよね。薬って、結局は構造を植物から学んでるだけ。だから、ハーブはメディスンなのよ。ここの土を作るのに10年かかった。でもね、ここからがスタートなのよ。やっと、これからハーブと真正面から向き合える。今からが本番。ハーブはこうして一生懸命やると裏切らない。そして、自分自身でもなく、他人のお世辞や批評も関係ないの。ハーブが私を評価するの」そう語る石井さんの表情は、畑と同じようにとても清々しい。
「ハーバリストというのは、ひとことで言えば、ハーブと共に暮らす人ってことね。
私の生活はハーバルライフそのもの。食事はすべて自作のハーブ調味料を使ってる。風呂に入っても、シャンプーやリンスも全部自作。ラベンダーをお酢に浸けてから使うと、髪がとても柔らかくなって心地良い。スキンケアもローションももちろん自作。コスメにかけるお金はゼロね。
実は、昨日忙しくて食事を抜いたせいか、今日も胃が痛かったんだけど、メドースィート(ハーブの一種)のハーブティを飲んで今はスッキリしてる。だから、縫わなきゃいけないくらいの怪我以外は、全部精油でカバーしちゃう。こんな風にして、自分の体感を通して得たハーブの知識や活用方法を、カウンセリングやセミナーを通じて、ハーブが人の助けになるんだよってことを伝えていくことがハーバリストとしての仕事だと思ってる」
そして、畑を眺めながら、石井さんが言ったのが、冒頭に記した「この仕事は天職だと思う。だって、限界を感じないのよ」という言葉だった。
「オーガニックというのは、無農薬とか農法だけのことじゃない。時間をかけて向き合って、丁寧に生き抜くこと。これがオーガニックだと思う」
石井さんが奏でる香りの音階には限界がない。こうしている、今、この瞬間も美しいハーモニーを追い求めているのだろう。