URBAN FARMERS CLUB

URBAN FARMERS CLUB

未来を耕そう

ARTICLE

未来を耕す人々 vol.01 /土屋拓人(ビオ市事務局)/油井敬史(ゆい農園)

01.芽吹き

アーバンファーマーズクラブ(以下、UFC)がどのようにして始まったのか。その原点の話を聞かせてほしい。

ビオ市事務局の土屋拓人とゆい農園の油井敬史に、そうお願いしていたのはまだ暖かさの残る初秋のことだった。彼らが暮らすのは、神奈川県の藤野(相模原市緑区)という里山のエリア。土屋と油井、そして私は、3日間でのべ5000人を動員していた廃校アートフェス「ひかり祭り」の実行委員として、ともに活動してきた仲間である。「もちろん! いつでもいいよ!」。ふたりとも忙しいだろうに、そんな気持ちのいい返事が、すぐに返ってきた。

UFCを語るうえで、ひとつの大きな疑問があった。なぜアーバンファーミングという都市での活動に、藤野というローカルな地域が深くコミットしているのかということだ。藤野で暮らしながらもUFCに関わる人々は、都市よりもローカルでの暮らしに魅力を感じ、移住してきた人がほとんどだ。それなのに、まるで振り返るように積極的に都市の活動に関わる理由はなんなのだろう。UFC結成のきっかけとなり、その後もディープに関わり続けているふたりに、ローカルの側としての思いを聞きたかった。

土屋と油井に会ったのは2019年10月22日だった。10月13日に上陸した台風19号が、藤野にも甚大な被害をもたらした直後のことだ。各地で土砂崩れや土石流、河川の決壊が起こり、停電や断水が起こった。電車は何日経っても動かず、主要道路のほとんどは通行止め。亡くなった方、避難生活を余儀なくされた方も大勢いた。

普段からさまざまな地域活動に関わる土屋は、避難所のサポートやボランティアのフォローなどで忙しく動き回り、油井は圃場の被害こそ大きくなかったものの、自宅の敷地が崖崩れの被害に遭い、早急に転居しなければならなかった。あれから雨は降り続いており、二次災害の危険は一向に消える気配がない。心がざわざわしていることは否めないが、前々からの約束だったからと、予定を変えずに会うことになったのだ。

 

始まりはファミレスから

相模湖畔のガストに到着すると、土屋はすでにやってきていた。「週末のガストがこんなにガラガラなんてありえない!」と興奮気味に言うとおり、お昼どきはいつも混み合う店内はひどく空いていた。交通網がことごとく寸断されているから、観光客もこないし、地元の人も気軽に外食する気分にはなれないのだろう。「飲食店も大変だよね。こういうときこそ外食してお金を落とさないと!」と、私たちはチェーン店であるガストの売り上げすらも心配した。静かな店内で台風の被害について話し、この先の地域のあり方や自分たちのあり方について話した。「ちょうど種蒔きの時期なのに、作業がやりたくてもそれどころじゃなくてできない。それがしんどい」と油井がこぼした。

なぜそんな日にガストだったのか。それはここが、UFCの始まりの場所だったからだ。

UFCには、その前身となる「ウィークエンドファーマーズ(以下、WEF)」というプロジェクトがあった。週末に都会で暮らす人たちに畑に遊びにきてもらい、収穫や種蒔きを行う。つまり農業体験ということなのだが、長年、オルタナティブカルチャーのど真ん中でアートやクリエイティブに関わってきた彼らが開催するそれは、野外の開放感をさらに拡張するかのような小気味いい音楽がかかり、テントの下でゆっくりくつろげたり、プロの料理人が野菜たっぷりのランチを提供したりと、気負いなく土とのふれあいを楽しめるものだった。まるで真っ昼間に大自然の中で開催されるパーティ。それは口コミで広がっていき、多くの都市生活者が足を運ぶまでになった。このプロジェクトを立ち上げたのが、現在UFCの代表を務める小倉崇、そして理事である土屋と油井の3人だった。

 

 

油井:その日もちょうど今日みたいな雨の日だった。作業もできないし、飯でも食いに行こうかってここにきたときに、小倉さんが「俺にできることがあればやるよ。力になりたい」って言ってくれたんです。

2014年秋のことだった。油井は就農して半年も経っておらず、共同で農園を始めた友人は、農家としての厳しい現実を前に連絡が取れなくなってしまっていた。収量も品目もまだわずか。畑のやり方も手探りで、本人いわく「家庭菜園に毛が生えた程度」だった。売ろうにもどこにどう売っていいのかわからず、先の見通しは立っていない。

小倉はその少し前、共通の友人である土屋を通じて、油井と知り合った。本業で編集やライティングを手がける小倉は、当時、たばこメーカー「アメリカンスピリット」のCSR事業で、有機農家を支援するプロジェクト「SHARE THE LOVE for JAPAN(https://sharethelove.jp/)」などの仕事を手がけており、全国各地の著名な有機農家の取材に回っていた。

その小倉が、初めて油井の圃場に行ったとき、その場で食べたほうれん草のおいしさに衝撃を受けたのだという。それまで食べたどんなほうれん草より濃厚で甘く、おいしかった。それと同時に「これだけおいしい野菜がつくれるやつが食べていけない農業っていったいなんなんだ」と思ったのだという。それから、小倉は暇をみては油井の圃場に足を運んで作業を手伝うようになり、途方に暮れる油井を前に、何か力になれないかと思うようになったのである。

 

たったひとりの仲間のために

20代の頃から小倉と親交があった土屋は、小倉が前のめりに農に関わろうとすることに驚いたという。

土屋:それまで、俺はおぐらん(小倉のこと)が農業に興味があるなんてちっとも思っていなかった。でも今思えば、おぐらんは興味があったんだよね。だって、ほかにも友だちのクリエイターは何人も遊びにきたけど、おぐらんほど農に反応したやつはいなかったもん。

これは俺の憶測だけど、おぐらんは藤野電力(http://fujino.pw/)の取材もしていたり、藤野のイベントにもしょっちゅうきてくれていたから、311以降に、これからは藤野のような生き方が大切になってくるって直感で思ったんじゃないのかな。だから、油井くんみたいに頑張っている農家をクリエイターやアーティストが助けることはできないだろうかって考えるようになったんだと思う。

といってもそんなに仰々しいものではなくて、バンドみたいな軽いノリだったけどね。でも純粋に、油井くんを助けたいっていう思いから始まってるんだよね。

小倉にはペンと編集力という武器がある。土屋は幅広い人脈と企画力をもっていた。それぞれがそれぞれの得意分野を生かし、イベントが始まり、ホームページ(ウェブマガジン)が立ち上がった。イベントとウェブの記事を通して、農の魅力や大切さ、農家のすごさを知ってもらう。実際においしい野菜を味わってもらう。やってみると、その場で野菜を購入する人もいるし、その後に注文してくれる人もいて、具体的な収入にも結びついた。その広がり方には、確かな手応えがあった。

始まりは、たったひとりの仲間のために。

その思いだけだった。

その純度が、さまざまな人のアンテナに届き、心を響かせる。事態は、3人も驚くような速さで、急速に進展していった。というか、急速すぎた。じつは、前述のような成果を得るよりずっと前に「渋谷で何かやりませんか?」という話が舞い込んできたのである。

 

渋谷で畑をやろう!

WEFの最初のイベントが開催されたのが2015年5月24日。それから1週間も経たないうちに、 シブヤテレビジョンの平田昌吾から土屋に連絡がきた。平田は、土屋の中学からの同級生で親友だった。かつては、一緒に仕事をしていたこともあったという。

土屋:平田がシブヤテレビに就職して、かなり出世してたの。それで「お前またいいことやってるみたいだな!」って連絡がきて。「うちのライブハウスの屋上使ってなんかやれば?」って言われて「じゃあ畑をやろう!」ということになった。そこからは早かったよね。もともとやろうとしてたこと(農業体験)と同時進行で準備して、半年後には渋谷の畑のお披露目会にこぎつけた。俺たちもびっくりしたよね。急展開すぎて。

ラブホテル街のど真ん中。ライブハウス「渋谷O-EAST」の屋上に誕生したのは、巨大プランターを3つ並べた畑だった。広々して気持ちのいい空間を活用し、野菜を育てるだけでなく、定期的にイベントも開催した。お客さんは「こんなところに本当に畑がある!」と笑い、土に触れ、楽しそうに1日を過ごす。油井は週に1度渋谷まで通い、畑の世話をした。週に1度とはいえ、定期的に通うのは相当負担が大きかったはずだ。それでもやろうと思ったのはなぜなのだろう。

油井:最初に畑をつくろうって話が出たときは、うちの野菜を渋谷にもっていく機会がつくれるんじゃないかっていうことも話したんだよ。渋谷で畑をやってイベントもやって、そこに俺の育てた野菜をもっていったら、ほしい人が現れるんじゃないかって。俺としては、都会で自分の野菜をPRする場所ができるのは願ったりかなったりなわけで、断る理由がなかったよね。

当時のおれは就農して2年目で、金はないし、全部手作業でやってたから収量もなくて、どう売っていいのかもよくわかっていなかった。収量がないのに売り先を探そうとすると、ひどいときには売価が「生きていけない」っていうレベルになるんだよ。1袋10円とか、本当にそんなレベルで買い叩かれる。

でもなんでそんなことが起こるかっていうとさ、農家が野菜を育てるでしょ。それから流通を通ってお店に出るわけなんだけど、買う人たちはさ、農家も流通も見えてないんだよね。見えてない部分には、誰だってリスペクトはできない。だって、その価値がわからないから。

だったら、農家のほうが都会に出て行って、野菜の育て方や味、思いなんかをデモンストレーションして売ったら、食べる側の意識も変わるかもしれない、そうしたら面白いことが起きるかもって小倉さんと話したの。というか、そうしていかないと俺らみたいな小さい農家はいつまで経っても食っていけないんじゃないかって。渋谷の畑を始めたのも、俺としてはそこだったんだよね。 

土屋:渋谷ってめちゃくちゃ人もいるし、お店もある。つまり、藤野の何十倍、何百倍の商圏があるわけで、渋谷と繋がるって農家としては販路開拓の究極なんだよね。だから油井くんにとって渋谷に関わることはデメリットなんてなかったと思う。交通費がかかるってことぐらいだよね。

実際、渋谷の畑を通じて、飲食店などいくつか取引先も見つかった。圃場を見てみたいと足を運ぶ人も現れ始め、油井の野菜は正当な価格で売れるようになっていく。

ちなみに、正当な価格といっても、ゆい農園の野菜は一般に出回るオーガニック野菜よりもずっと安い。

誰もが日常的に食べる野菜が、高級品であってはならない。手間暇がかかるオーガニック野菜だろうと、誰もが当たり前に買える値段で売り、毎日気軽に食べられ、その価格でも農家が十分食べていけなくてはいけない。油井はそう考えている。

「これだけおいしかったら、もっと値段上げても売れるよ」。私は何度か、そう伝えたことがある。しかし油井は頑なに値段を上げようとはしなかった。まだ生活の目処が立っていなかった頃からずっと、だ。そして実際、油井はその信念を曲げることなく、専業農家として生計が立てられるようになった。昨年は念願のトラクターを購入している。高価な機材を購入することは、この先も農家として頑張っていくという決意の表れでもあった。「今までの手作業はなんだったんだってくらい、楽!」と嬉しそうに話していたことを思い出す。

油井の野菜を「今日も安いな、おい!」と言いながら買うとき、それを調理して食べるとき、絶対に無駄にしない、おいしく食べたいと思うのは、私がそうした油井の努力やそこに込められた思いをわかっていて、きちんと受け取っているからなのだと思う。

彼らが渋谷の畑を通じて実現したかったのも、つまりそういうことなのだろう。油井のような農家の存在や、もっといえば野菜が育つ畑そのもの。そうした、都会にいるとなかなか見えてこない部分にスポットを当てることで、その物の本来の価値に気づいてもらう。すると(少なくともその両者間において)「物」の価値はずっと高まり、気持ちの良い循環の仕組みが生み出されていくのだ。

 

何かあっても自分たちでなんとかすることの大切さ

さまざまな事情で渋谷の畑を撤収することになったのは、それから2年後の2017年末のことだ。渋谷の畑、そして同時期に土屋が始めた藤野のファーマーズマーケット「ビオ市(https://bio831.com/)」のおかげで、油井の売り先は徐々に増え、「油井くんが食べていけるようにする」というWEFを立ち上げた当初の目標は、概ね達成できていた。

ではこれから先はどうするのか。その頃には、小倉は純粋に農というものに関心を持って向き合い、都市に畑を増やしたい、という新たな目標が定まっていた。

ここでもすぐに事は進み始める。畑ができる新たな場所を探していた矢先、のちにUFC理事となる佐藤勝(渋谷・桜丘地区の再開発事業組合理事であり、『渋谷のラジオ』ファウンダーにして、木曜日総合パーソナリティ。渋谷みつばちプロジェクト代表も務める)の紹介で、『東急プラザ原宿表参道』と『ウノサワ東急ビル』の2箇所の屋上が借りられることになったのだ。そして、のちにUFC理事となるNPO法人グリーンズの植原正太郎と恵比寿新聞のタカハシケンジとも渋谷の畑で出会っていた。これがきっかけとなり、今後の展開も見据えて、NPO法人アーバンファーマーズクラブが立ち上がった。

キックオフ集会の熱気は、想像以上だった。これまでもアーバンファーミングを推奨する類似の活動はあったに違いない。それなのに、この熱気はなんなのだと思った。

土屋:変な話、似たような活動でも、ちょっと真面目そうで敷居が高く感じることってあるじゃない? だけどUFCは、渋谷って場所とコアメンバーのキャラとで、すごくキャッチーな感じがあったと思う。なんかこう、ゆるいというかね。そういう入りやすさが良かったんじゃないのかな。

油井:それともうひとつ。やっぱり311を通じて、流通が寸断されたときの食い物のことをみんなが考えるようになったんじゃないかと思う。店に置いてあるものは流通が寸断されればすぐなくなる。それってやっぱり恐怖なんだよね。でも災害は誰の責任でもないから、自分たちで解決しなきゃいけない。だから小倉さんも、何かあっても自分たちでなんとかすることの大切さっていうのはずっと言っていて。そこが刺さったんじゃないかなと俺は思います。

「それと、おぐらんの本も良かったと思う」と土屋が言った。

小倉が渋谷の畑の顛末を書いた著書「渋谷の農家」を出版したとき、思い切ったタイトルをつけたな、と私も思った。ライブハウスの屋上で小さな畑を耕す自分のことを、小倉は「農家」と言い切ったのだ。

土屋:おぐらんは農家を再定義したわけだよね。現代社会においての農家は、何もそれで収入を得ている人たちのことだけをさすんじゃないんだって。資格なんか関係なくて、プランター1個でも野菜を育てていれば、農家っていえるんじゃないかって。

油井:そう。それで十分なんですよ。そこでひとりひとりが見たものとか得た感情は、俺らみたいな専業農家との共通の話題にも絶対になるからね。

 

ペイフォワードのマインドをもって

2018年には藤野のお隣の津久井地区に「UFCリトリートセンター」が誕生した。ビオ市メンバーで、都内で飲食店を経営しながら農業をやっている「アビオファーム」の遠藤氏から「使っていない畑を活用できないか」と相談を受けた土屋はすぐにUFCを紹介。本格的に鍬を握りたくなった会員は、広々した畑で野菜を育てることができるようになった。これにより、藤野と渋谷は実際の拠点としても結ばれたのだ。

今後の課題は、渋谷の活動に藤野が協力している、という形ではなく、相互に助け合い、高め合う関係性をつくることだ。まったく違う環境、まったく違うライフスタイルだからこそ、つながることで可能性は無限に広がっていく。それぞれのメリットを生かし、デメリットを補い合うのである。すでに、勝手に姉妹都市計画や、渋谷と藤野両方で使える共通の地域通貨をつくる計画など、彼らの妄想は現実的なものから非現実的なものまで、驚くほど膨らんでいる。そのなかでも、特に彼らが可能性を感じているのは、災害時の相互支援だ。

藤野は台風19号の被災により、UFCに関わる人々からも多くの寄付をいただき、ボランティアに参加してもらうなど、たくさんの支援をしてもらった。今後も災害は頻繁に起こるだろうといわれているが、渋谷(都市)と藤野(ローカル)がつながることで、2拠点間の巨大コミュニティが形成されるメリットは大きい。

土屋:UFCはすごいよ。もしこの先、今回とは逆に都心で有事があってもさ、UFCと関わる人には藤野から野菜や支援物資が届くわけじゃん。つまり、何があっても食べるものには困らない。農家とつながるっていうのはさ、それだけ財産なんだよね。今、UFCの活動を持続可能にするためにサブスクリプション化を検討しているんだけど、これは防災にもお金を払うようなものでさ。その価値はあるんじゃないのかなと思う。

油井:災害用の保険もいろいろあるけど、それも結局、必要なお金が全額もらえるわけじゃないんだよね。だったらその分、農家や地域にお金をかけて、何かあったときに支援っていう形で返ってくるっていうほうが、お金の使い道としてまっとうだと思う。

それに俺は、ペイフォワード(恩送り)みたいな考え方が今の世の中には必要だと思っていて。要は、徳を積むってことなんだけど。 

この間も、台風の影響で交通機関が動いてなかったから、ヒッチハイクのオランダ人をピックアップしたのね。それってさ、俺にとっては、いつもの通り道で彼らを乗せて降ろす、そのひと手間を増やすだけなわけ。それだけで徳が積めるんだったら別にいいじゃんって思うし、なんかこう、すごくいいガソリン代の使い方じゃない(笑)? 要は「手元にあるお金を何にどう使うのか?」っていうことでさ。

都会でペイフォワードみたいなマインドが生まれれば絶対強い。だって都会は、人もいっぱいいるしお金もある。問題は、食い物が自給できないっていうことだけだからさ。

藤野はペイフォワードが当たり前に行われている地域だ。そんな藤野での暮らしに身を置く彼らは、安心で楽しくて、生きやすい社会の可能性がこの暮らしのあり方にあると確信している。そしてUFCというコミュニティに感じているのもまた、同じ可能性なのだ。特に、農というキーワードをもつUFCは、都市の弱点でもある食料自給について、内からも外からも支えられるという強みがある。

「つまりさ、ある意味でこれは、都市の自立ってことなんだよね」

アーバンファーミングが普及すること、都市にないものをもつローカルとつながること、そしてひとりひとりがペイフォワードのマインドをもつこと。これを油井は「都市の自立」だと言い切った。そこに期待と希望をもって、ローカルから都市へと眼差しを向けている。

でも強い使命感をもってやっているかというと、ちょっと違うようだ。

なんというか、もっとシンプル。彼らはただ当たり前に、目の前の関係と可能性を大切にしているだけなのだ。それをあえて言葉にするなら「ペイフォワード」ということになるのだろうか。もちろんUFCの理念やビジョンに賛同はしているし、だからこそやっているのは確かだろう。でも結果はあとからついてきたもので、本質はそこではないのだと思った。

無意識のペイフォワードが織りなした自然の産物。それがUFCなのだ。

 

始まりをさらに遡って

最後に、小倉と土屋の出会いについて書いておきたい。

土屋の地元は、東京の南青山だ。カルチャー発信の中心地で幼少期を過ごし、20代はモデル事務所や広告会社などの華々しい仕事を手がけて、一定の成功を収めていた。そんな土屋がなぜ藤野に移住しようと思ったのか。そう尋ねると、思いがけない話が始まった。

「じつはさ、藤野に移住するきっかけって、おぐらんたちと知り合ったことなんだよね」

土屋:俺は移住する前、自分の仕事に限界を感じていて。すごくチャらくてミーハーな業界にいたからさ。このままやっていてもなんにもならないかもしれない、って思い始めていたときに、おぐらんのグループのひとりが、マンションのすぐ上の部屋に引っ越してきたの。そこから10歳近く上のおぐらん世代の人たちと毎晩のように遊ぶようになった。そこでの出会いがすごく大きかったんだよね。

日本のカルチャー・シーンを支えるアーティストやクリエイターが集っていたというゆるやかな共同体は、まだ20代だった土屋に強い衝撃を与えた。

土屋:彼らは、同じマスコミ関係の仕事でも、ミーハーじゃない世界で本物だけを取材したり、本物だけを発信してた。なにしろ俺はチャラかったから(笑)、こんなにすごい世界がこんなに近くにあったんだって衝撃だったよね。

そこで一気にソーシャル・デビューした感じはあって。オーガナイズするパーティの質も変わったし、遊びにいく場所も変わった。そうすると、出会う人たちまで一気に変わった。おぐらんが藤野から受けた影響と同じぐらい、当時は俺がおぐらんたちに影響を受けた。

その中のひとりが「つっちーはこういうの好きなんじゃない?」って、映画の「ガイアシンフォニー~地球交響曲~」とかさ、環境系やスピリチュアル系のことをいろいろ教えてくれたんだよね。で、このまま東京にいたらやばいかもしれないって思うようになって、それが移住のきっかけになった。みんなは「つっちーが俺たちの影響を受けて田舎に行っちゃったよ!」「あいつ若いから、出向だな!」って超笑ってたらしいけど(笑)。

でもそこで、本物の遊んでる大人たちと出会えて本当によかった。じゃなかったら、ミーハーでチャラい世界にいたまま、人生終わるところだったから。

このときの出会いと影響は、のちに土屋を地域活動家へと後押しすることにもなる。

土屋:結局場所って関係なくてさ、彼らは東京だけど仕事も回しあってたし、当たり前に助け合ってた。それは、すごく純粋な助け合いだったよ。今の藤野とまったく同じ。今、藤野でやってるようなことを、東京のクリエイティブなおじさんたちはとっくにやってたんだよね。 

それを見てたから、藤野に移住したときになんかつながりが変だと思ったわけ。東京の人の親切と藤野の人の親切は俺の中で完全に一致してて、ポテンシャルは似てる。だけどなんかつながりが変。だから、これをちゃんとつなげたらもっと仲良くできるなって思ったんだよね。でもどうすればいいんだろうって考えてたときに「よろづ(地域通貨よろづや)(https://fujinoyorozuya.jimdofree.com/)」を始めるっていう話を聞いて。これだと思って、メーリングリストをつくって助け合いができるベースをつくった。彼らの結束力を見ていたことが、よろづ立ち上げのモチベーションになったんだよね。

面白いものだ。

UFCの原点をさらに遡っていくと、そこには土屋が東京で出会った頃の小倉がいた。その出会いが土屋を藤野に移住させ、地域づくりの活動へと向かわせていく。そんな土屋の活動が、今の藤野を形成する一端となり、今度は小倉が、土屋たちがつくりあげてきた藤野のあり方に影響を受け、農家として歩み始めたばかりの油井を助ける動きにつながった。そして今、その延長として油井と土屋は、小倉を支えるようにUFCという都市での活動をともにつくりあげている。

本当に面白い。

すべては循環し、つながっているのだ。ひとつひとつの出来事が、誰かしらの人生になにかしらの影響を与え、増幅し続けている。

この循環は、ペイフォワードの応酬が続く限り、終わらないだろう。

過去も現在も連鎖して、すべては未来に続いている。